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​岡田武彦先生とのご縁は河合寸翁・仁寿山校の探究

 私はUターンで姫路に戻ってきました。私が住居しています地に仁寿山と云う論語から命名した山があります。その麓に、姫路藩の家老・河合寸翁が設立した仁壽山黌(仁寿山校)があり、素人なりに調べておりました。その時に地元企業の経営者から岡田武彦先生の『東洋のアイデンティティ』の著書を紹介いただきました。また、別の地元企業の経営者の縁で岡田先生に私が纏めておりました、『河合寸翁と仁寿山校』の資料をお送り致しました。岡田先生からは人材育成の重要性と、郷里の賢人、河合寸翁の顕彰の励ましのお言葉をお手紙でいただきました。その後、『歴史の街・播磨』のブログとホームページを立ち上げて河合寸翁と仁寿山校を紹介してまいりました。

 昨年、令和5年に、岡田武彦先生の御縁により、福岡県の古賀様の御縁と御協力をいただき、今回このホームページを立ち上げる事となりました。

仁寿山と西池(旧大池)

仁寿山(左側」)と西池(旧大池)、及び麻生山(小富士山、右側)
右側に水楼とその奥に仁寿山校がありました。現在は土塀と竹林となっています。

仁寿山校井戸跡

仁寿山校井戸跡

仁寿山校絵図より 姫府名士河合寸翁伝
仁寿山校跡地 竹林と土塀

仁寿山校跡地 竹林と土塀

​『歴史の街・播磨』河合寸翁と仁寿山校のホームページを立上げて紹介

​下の画面をクリックすると、『歴史の街・播磨』にジャンプします。

仁寿山校探究記広報

1.岡田武彦先生の著書「東洋のアイデンティティ」から学んだこと

⑴ 『易経』は占いと倫理道徳の書

 岡田武彦先生の著書「東洋のアイデンティティ」の中の「古代人の英知-処世の道」で「『易経』は専ら宿命を説く書でもなければ、専ら倫理道徳を説く書でもない。両者を一体として説いたところに『易経』が英知を説く書とみなされる理由がある。」と先生は書かれておられます。私はこの文章を読んで占いと人倫道徳を一体として学ぼうと決めました。その両方を学ぶことによって自然の摂理や変化の理法がより見えてくるのではないかと思ったからです。

『東洋のアイデンティティ』岡田武彦 著

易・八卦のイメージ

​ 宇宙の万物の根源、中心、元気である太極があり、それが活動して陽と陰に分かれ、(両義)陽は⚊、陰は⚋の符牒(記号)で表します。易は二元論の様に見えますが太極は一つであり一元論です。太極が動いて陰陽となっています。陽は天、太陽、昼、剛、男、父、などであり、陰は地、月、夜、柔、女、母などとして表現します。更に、陽と陰を重ねて⚌老陽(夏)、⚏老陰(冬)、⚍少陽(春)、⚎少陰(秋)として表します。これを四象と言い、時の流れを表現しています。そして、陰陽を三つ重ねて小成卦とし、自然現象を八卦で表しています。

易・八卦のイメージ

​          『易経』六十四卦索引表
この64卦の中に自然摂理や人生が包含されています。上卦の八卦と下卦の八卦を組み合わせると64卦の大成卦ができます。一つの卦には6つの変爻(時間の変化)があります。

『易経』六十四卦索引表

仁寿山校で『太極図』を出版

姫路藩支校「仁寿山校」出版の「太極図」

天保三年(1832年)九月に出版

出典:「兵庫県学制百年史 飾磨県時代の教育概況」 島田清 著

天保三年九月(1832年)、仁寿山校で『太極図』を出版されました。

『太極図』は宋学における宇宙と人間の根本原理を説くもので、周敦頤がつくり出し、朱子が重要な新解釈を行いました。宋学の入門書『近思録』(1176年刊行)の「道体」に太極図説の説明があります。近思録とは「論語」の「切に問いて近く思う、仁その中にあり」から取ったもので「身近なことから考えてゆく」という意味です。朱子は宇宙論・形而上学を補い、宋学(新儒教)のリーダー的役目をにないました。

『易経』を学ぶホームページ『私の易の学び方』を立ち上げて
『易経』の紹介を行っています。

​下の画面をクリックすると、『私の易の学び方』にジャンプします。

「私の易の学び方」ホームページ画面

2.古代人から学ぶ「処世に重要な三つの人生観」

 現実主義と超越主義をよく理解し、理想主義に向かって生きる

 そして、もう一つ、岡田武彦先生から学んだことがあります。それはその本の巻末の「あとがき」に書かれている文章でした。先生は古代の思想家から時間と場所を超えて通用する「処世に重要な三つの人生観」を私達現代人に教えて下さっています。先生の著書からその部分を抜粋します。それは「第一は、人間は徹底的に私利私欲を求める功利的な存在であるという考え方にもとづき、これに対処する道を講ずる現実主義に立つもの、第二は人間のなすことは徹底的に矛盾に充ちたものであるという考えにもとづき、人間を超えた自然の道に従っていこうとする超越主義に立つもの、第三は、人間は元来思いやりの深い存在であるという考えにもとづき、倫理道徳による理想社会を実現しようとする理想主義に立つもの、この三つである。私個人の希望を率直に申し上げれば、第一・第二の人生観をしっかりとよく理解した上で、第三の人生観に従ってほしいと思う。」です。私はこの文章を読み、何か腑に落ちた様な感じがしました。私自身が企業や社会で体験したことやビジネス倫理で説かれている内容が、この先生の言葉に全て含まれていると思いました。

『東洋のアイデンティティ』岡田武彦 著
古代の思想家から学ぶ処世に重要な三つの人生観

仁寿山の紹介

 白浜町の北方に仁寿山と云う山があります。この山は『論語』から命名されました。文政四年(1821年)、姫路藩藩主・酒井忠実は永年にわたる藩政改革、財政再建の功に報いる為に当時幡下山(はたしたやま)といわれていた山を家老・河合寸翁に与えました。その後、この山は前藩主酒井忠道公の意旨を承け論語の雍也第六の『知者楽水、仁者楽山、知者動、仁者静。知者楽、仁者寿(仁者は寿〔いのちなが〕し)。』から仁寿山と命名されました。

  岡田先生は仁寿山に登り、山頂から明石、家島、小豆島を臨み、心静かに播磨灘を眺めるのが好きだったようです。

仁寿山全景

写真左手に姫路市街が、山頂から左山麓には河合家墓地と右山麓に

仁寿山校跡の林(赤と白の電力線鉄塔の右)が見えます。

姫路藩 河合寸翁・仁寿山校の紹介
人材は「国家の宝」、未来を創る人材養成学校

河合寸翁(1767~1841)は姫路藩主酒井家の家老で、産業を盛んにして藩の財政を立て直したことで有名です。彼は多年にわたる功績により、藩主から与えられたこの地に、人材養成のための学校を開き、仁寿山校と名付けました。仁寿山校は、文政五年(1822)に開校し、頼山陽など有名な学者も特別講義をしました。

仁寿山校略絵図

​仁寿山南側登山口の仁寿山校略絵図 姫路市教育委員会、姫路市文化財保護協会

仁寿山と大池

​仁寿山と大池(現在は西池)・池の右奥に仁寿山校がありました。 

仁寿山校の紹介

仁寿山書堂立朱夫子白鹿洞書院掲示之碑
学問の心得が書かれており、頼山陽が仁寿山校で教授しました.

仁寿山書堂立朱夫子白鹿洞書院掲示之碑

出典 『河合寸翁大夫年譜』  矢内正夫 編輯

「仁寿山書堂立朱夫子白鹿洞書院掲示之碑」

仁寿山校朱夫子白鹿洞書院掲示碑画像

「仁寿山書堂立朱夫子白鹿洞書院掲示之碑」デジタル処理を行いながら復元しました。

朱夫子白鹿洞書院掲示

この碑に書かれているのは、学問を志す者が、肝に銘じておかなければいけない「学問の重要な心得」が書かれています。儒教は「修己治人」の学問であり、その学問をどのように学んだらよいか、わかりやすく示されています。朱子は規則を好まず、自己を律することを尊重しており掲示としたようです。碑の主要なところを抜粋しました。

「父子に親あり、君臣に義あり、夫婦に別あり、長幼に序あり、朋友に信あり※2。      

博く学び、審かに問い、慎んで思い、明らかに弁じ、篤く行う※3。       

言は忠信であること、行いは篤敬であること※4。忿りを懲らし慾を窒ぐこと※5、善に遷って過ちを改めること※6。

​右は身を修むるの要なり。

その義を正してその利を謀らず。その道を明らかにしてその功を計らないこと※7。

右が事柄に対処する要である。

自分がそうして欲しくないことは、人にしてはならい。※8。実行してうまくゆかぬときは、わが身に振り返って反省すること※9。

​右が人と応対する要である。」

​​

※1 朱子が制定した学生心得。朱子は外から規制する学規を嫌い、掲示としました。

朱子が白鹿洞掲示碑にピックアップした出典書物

※2 『孟子』、※3『中庸』、※4『論語』、※5『易経』損卦、※6『易経』益卦、※7『漢書』、※8『論語』、※9『孟子』

出典:三浦国雄 著『人類の知的遺産 19 朱子』講談社 1979年

         抜粋引用:325頁~327頁 ニ 白鹿洞書院掲示     

​​​朱子は四書五経や漢書から重要な点をピックアップして説いています。

朱子は当時、多くの人がそうであった功利主義の人が目指す科挙(国の試験制度)を嫌いました。「民と共にある」人間をつくる学問を目指しました。河合寸翁や仁寿山校で講義を行った頼山陽もそのような志の人間を養成したかったと思います。

 

河合寸翁も財政改革を成し遂げたあと、半官半民の学校による人づくりを目指しました。

仁寿山校の白鹿洞掲示碑は長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑に生まれ変わっていました。

姫路の聖人・亀山雲平先生が詠んだ鎮魂の漢文

龜山節宇(亀山雲平先生)が教え子の悲しみを詠んでいます。

近世名家短文集になっています。

長谷川君父子瘞髪之碑正面

地蔵院にある長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑

長谷川君父子瘞髪之碑側面

長谷川君父子瘞髪之碑とお地蔵様

長谷川君父子瘞髪之碑・亀山雲平先生の漢詩

亀山雲平先生の漢文

 その碑は今、姫路市京町の地蔵院の境内にお地蔵様と南天の木に守られて「長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑」となって、建立されています。この碑は、亀山雲平先生の教え子であった長谷川君父子の瘞髪鎮魂の碑です。

 ※瘞髪(えいはつ・遺髪を埋める)

 幕末・明治初頭は遊学と留学が盛んに行われました。父である長谷川鍛冶馬は藩の命により武術習得の為に福岡に遊学に、時を経ての娘婿の長谷川雉郎は明治政府の命により米国ニューヨーク州トロイに留学に行きました。しかし、長谷川君父子は遊学先、留学先で志半ば病に倒れて客死しました。亀山雲平先生はこの教え子の不幸を嘆かれ、親戚の依頼を受けてこの鎮魂の漢文をつくり父子の遺髪を埋めて碑を建立されました。藩と国の為に志を高くもって他国で亡くなった二人。遺髪を合葬すれば二人の魂はひとつのところに帰ってきて出会うだろうと、この碑がつくられたそうです。

詳しいことはホームページ「日本漢文の世界・長谷川君父子瘞髪之碑」の記事をお読みください。

  ホームページ ➡     日本漢文の世界

​※リンクは「日本漢文の世界」の管理人様の許可を頂いています。

 私はこのホームページを見て、この歴史的事実を知りました。いろいろと調べていきますと明治期初頭の留学生は痛々しいほどに国のため、プレッシャーや病と闘いながら苦学をされていたということを知りました。本当に胸が詰まる思いがします。

 

 今、長谷川雉郎の墓はニュージャージー州ニューブランズウィックの日本人留学生の墓地に眠っています。その写真をブログに載せておられる方がいます。見てください。ニューブランズウィック市は山形県鶴岡市と福井市と姉妹都市となっています。

※ホームページ「Rutgars 日下部太郎の墓を訪ねてより」は(管理人不明、現在インターネットプロバイ

 ダーのサービス終了の為、閲覧できなくなっています。)

米国ニュージャージー州ニューブラウンズウィック、ウィローグローブの日本人留学生の墓地

※ホームページより抜粋

ウィローグローブの一角に日本人の墓が集まっています。
一番右側の石柱が日下部太郎の墓です。
ちなみに左のお墓から順に、名前、亡くなった場所、享年を示すと

入江音次郎(いりえ おとじろう)、 NY, NY、 19歳
小幡甚三郎(おばた じんざぶろう)、 Brooklyn, LI, NY、 29歳
松方蘇介(まつかた こすけ)、 Farmington, CT、 22歳
長谷川雉郎(はせがわ きじろう)、 Troy, NY、 23歳
日下部太郎、New Brunswick, NJ、 26歳

仁寿山校の朱子の白鹿洞掲示之碑と長谷川君父子瘞髪之碑は碑文が変わっていますが、学問の心構え、つまり、「修己治人」の教えを学び実践した志の魂の碑として変わっていないのではないでしょうか。私はそのように思っています。仁寿山校の学生もそのような志を持った人が多く集まりました。

 碑の上部には前の碑と変わらず、双龍が守っています。その双龍の上部中央に宝珠がありますが、現在の碑となって、宝珠が魂に描かれているように思えるのですが、そのように見えるのは私だけでしょうか。 (※宝珠:災難を除き、濁水を清め、望みを叶えると言われています)

 碑の前に南天の木が植えられています。今、赤い南天の実をつけています。南天は発音から「難転」つまり禍を転じると云われ、幸せをもたらす木として昔からも用いられてきました。英語では「heavenly bamboo」と言います。実は咳の鎮静の薬とされてきました。南天の赤い実が長谷川君父子の魂を守っているようにも見えました。ご冥福をお祈り致します。

​明治維新前後の米国留学は命がけだった
​新しい日本国家の礎になる為に、海を渡った若獅子達

 さる3月5日ニュージャージー州のラトガース大学150周年記念会議「ラトガース大学、日本との出会い」と題するオンライン会議が開催されました。米国の週刊NY生活に「海を渡った若獅子たち」としてこの記事が掲載されました。オランダ修正協会を母体とする学校を前身として1866年に設立された州立大学です。慶応3年から明治30年までに日本人300人がこの大学で学びました。因みに姫路藩士・長谷川雉郎はニューヨーク州トロイで学びました。墓は日下部太郎を含め六人の留学生と共にニュージャージー州ニューブランズウィック、ウィローグローブの日本人留学生墓地に眠っています。幕末から明治にかけて海外に留学することは命がけの学びであったことが分かります。彼は残念ながら喀血で亡くなるのですが、彼のホームステイ先のトロイの中学校教師・ウィルソン氏は四つの行いを讃えています。

 一つは潔さ、二つは学問好き、三つは慎み、四つは真心であると言っています。

 海を渡り、米国に学び近代日本を支えた命がけの日本人留学生の記事を、是非読んでいただきたいと思います。

週刊ニューヨーク生活2021年3月6日 「海を渡った若獅子たち」

※長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑は姫路市教育委員会に顕彰をお願いし、顕彰を行っていただきました。市の刊行物「文化財見学シリーズ」を改訂され、顕彰資料は姫路市内の高等学校・国際文化科の学習資料として提供されているようです。

姫路にある仁寿山校跡地に咲く椿と竹林

姫路にある仁寿山校跡に咲く椿と竹林

玉椿 は椿の美称で、長寿の 木として祝賀の歌に多く使われる語であり、また茶席などの和室の花として鑑賞され、桜とともにきわめて宗教的な花と言われています。姫路銘菓「玉椿」は、姫山に咲く可憐な乙女椿を着想して、茶人でもある河合寸翁が名づけたとも云われています。

 春には、仁寿山校跡地には、造園業者が植えた多くの椿が咲き乱れています。椿は世界の園芸種が6,000種あるといわれ、花は散っても誇らしげに上を向く椿の特性を多くの人が愛したと言われています。

河合寸翁の和歌

河合寸翁の和歌
河合寸翁画

河合寸翁肖像

『姫府名士河合寸翁伝』より

河合寸翁が遅桜の歌を詠んでいます。

四月三日(現在の五月十日頃)

遅櫻を武士のえりはらひせしほまれかなはるにをくれて匂ふさくらは

                         

他界した義母のタンスから出てきたと、家内がくれた河合寸翁の複製の短冊。裏には「複製 小林松濤園」と印刷されています。

姫路藩家老 河合寸翁略伝

明和四年江戸姫路藩邸に生る。幼きにして機慧、藩主酒井宗雅忠以公殊の外之

を愛し自ら茶道、詩歌、書、絵画等を指導す。元鼎硯なる名硯を所持し、自ら

鼎或ひは元鼎を称す。藩主酒井忠道公より道の字を賜り道臣と名のる。

字は漢年、号は白水、晩年致仕して寸翁と号す。

忠以公、忠道公、忠実公、忠学公四代の藩主に仕へ、天賦の才と抜群の博識卓

見を以て藩の財政を大いに振興し、禄五千石を賜り家老の上座を命ぜられる。

文政四年場外仁寿山に自らの学問所を設け、朱子と藤原惺窩を祀り、頼山陽

等を招きて藩内外の子弟を教育し、藩黌好古堂と相俟て、多数有用の士を輩

出す。

天保六年三月隠居、同十二年六月二十四日歿、七十五、仁寿山に葬る。

                            弌 菴 識

頼山陽

​仁寿山校に招聘され、真の学問を教授した

頼山陽坐像・広島頼山陽史跡史料館

​広島・頼山陽史跡史料館 頼山陽坐像

竹原の頼山陽坐像

​竹原の頼山陽坐像

頼山陽(安永九年~天保三年/1780~1832)は大阪生まれの「安芸の人」で江戸時代後期の儒学者、漢詩人、歴史家、画家、書家の人と言われ、旅や酒も女性も好きな自由人でした。あの有名な『日本外史』を執筆した方です。『日本外史』は史記を参考に、源平から徳川までの武家の栄枯盛衰の歴史を綴ったもので、天皇と武家の関係を執筆し、幕末尊王思想に影響を与えた書物です。

 頼山陽は仁寿山校を訪れ学問のあり方や方法、教育や人生の意義・目的など色々な問題を討論させとた言われています。

※昔、頼山陽先生の旅に広島に行っていました。頼山陽先生のふるさと、小京都といわれる竹原に先生の像があります。

 頼山陽先生は、銘酒・剣菱を飲みながら幕府の恐れに屈することなく、酒標の霊気と酒魂によって『日本外史』を執筆されたそうです。昔買った箱入り「黒松剣菱」の中に冊子が入っており、その中に頼山陽先生が剣菱を飲みながら執筆されている絵が描かれています。また、赤穂浪士の討ち入り出陣の際にも剣菱が飲まれたそうです。その絵も描かれています。

※剣菱は不動明王の剣と鍔が商標となっています。古来武家の慶祝の祝酒に用い

られていたそうです。私も好きな一つのお酒です。

頼山陽の絵(黒松剣菱の箱に入っている冊子)

​黒松剣菱の箱に入っている

冊子の中の頼山陽の絵

頼山陽愛飲の酒

頼山陽愛飲の酒

​広島の頼山陽史跡資料館にて展示​

姫路懐古・頼山陽

今年の桜は風雨に負けず綺麗に咲き続けました。

姫路城内に頼山陽の『姫路懐古』の七律の漢詩が展示されています。姫路城について頼山陽の鋭い歴史観と洞察力で詠まれています。

姫路懐古 頼山陽

 

五畳城楼挿晩霞    五畳の城楼、晩霞(ばんか)を挿しはさみ。  

瓦紋時見刻桐花  瓦紋(がもん)時に見る、桐花を刻するを。 

兗州曽啓阿瞞業  兗州(えんしゅう)曽(か)って啓(ひら)く、阿瞞(あまん)の業。 

淮鎮堪興匡胤家  淮鎮(わいちん)興すに堪(た)へたり、匡胤(きょういん)の家。  

甸服昔時随臂指  甸服昔時(でんぷくせきじ)、臂指(ひし)に随ひ。

勲藩今日扼喉牙    勲藩今日、扼牙(こうが)を扼(やく)す。  

猶思経略山陰道 猶思ふ山陰道を経略せしを。

北走因州路作叉 北、因州に走りて、路叉をなす。 

姫路懐古・頼山陽

​頼山陽と『易経』【考察】
頼山陽は12歳で『易経』を読み終えました

頼山陽史跡資料館の玄関前の頼山陽坐像

 頼山陽は12歳(以下全て数え年)で『易経』を読み終えて、「立志論」を書きました。そして、14歳で「述懐(立志詩)」を作りました。その漢詩が、学界の重鎮で昌平黌教授、柴野栗山(しばのりつざん)の目に留まり、高く評価され、父、春水を通して、詩より歴史を学ぶようにと、『通鑑綱目(つがんこうもく)』(朱熹の撰と云われる史書)を薦められました。そして、彼はこのアドバイスを受け、『通鑑綱目』から勉強を始めるのでした。この学びが彼の見識と史観を高める事となり、彼のデビューのきっかけをつくる出来事となりました。(1 p.39-44)

 私は、この頼山陽の話を知り、12歳で、このようなことができるのは天才であると思いました。彼の決意としての立志論を書かせ、立志詩を作らせたのは『易経』が大きくかかわっているのではないかと考えています。(2 p.141-142) その『易経』の教えは何だったのか、私なりに考察をしたいと思います。

 

 先ず、頼山陽が幼少期に読んだ書物を、順を追って確認したいと思います。7歳の時には四書の大学の素読を始めています(1 p.34)。大学は、君主や宰相として天下を導く者が治める学門で、修身、斉家、治国、平天下の政治哲学と学問を結び付けた大人の学です。次に、10歳の時、読んだのが四書の論語です (1 p.39) 。 論語は孔子の言行録で、仁に基づく君子の道と、真の人間の生き方を説いた書物です。そして、12歳の4月に経書の筆頭である『易経』を修了しています。(1 p.39)

『易経』は占いと人倫道徳を包含し、自然摂理と自然哲学を教えている経書です。『易経』は変化の書であり、「生」の学問です。現代人は『易経』と言えば、占いと思う人が多く、また、インターネット検索をすると占いの内容で満ち溢れています。いつの間に、日本人は占いばかりに興味を持つようになってしまったのか、本当に残念でしかたありません。『易経』は簡単に云いますと、64卦、つまり64の自然から学んだ物語と君子への教えで構成されています。また、『易経』はストーリー付けされた順序(序卦伝)で配置されています。1番目の乾為天(けんいてん) ䷀(天)と2番目の坤為地(こんいち) ䷁(地)が交流して3番目の水雷屯(すいらいちゅん) ䷂(万物発生)となり、~中略、63番目は水火既済(すいかきせい) ䷾(完成)、そして、最後の64番目は火水未済(かすいびせい) ䷿(未完成)となり、誕生から完成、完成から未完成となり、新たなるスタートとなります。そして、永久に循環していきます。

そして、易には三義(さんぎ)と六義(りくぎ)が有ります。

◆易の三義(さんぎ・①~③)と六義(りくぎ①~⑥) (3  p.60-p.61)

①易簡(いかん)  分かり易い 自然摂理はシンプルです。

②変易(へんえき) 変わる 例)1年の季節は刻々と変わります。

③不易(ふえき)  不変  例)次の年も変わらぬ四季は来ます。

④神秘的です。   

⑤創造・発展(天地万物の創造・進化)します。

⑥治めます。(自然現象を観て、人間の道を治めます。)

 

頼山陽は、我々人間は刻々と変化する時間の中で生きている、人間にとって学を治めるには時間がない、この世で大成するには、まず、志を立てて早く踏み出したい、そして、公に尽くし、国の為に尽くしたいと自覚し、決心したのではないかと考えます。(2 p.141-142)

そして、『易経』は乾為天(けんいてん) ䷀と、坤為地(こんいち) ䷁を理解できれば、大半を理解できたことになるとも云われています。その一番目の乾為天は「龍による帝王学の物語」となっています。乾為天 ䷀は天であり積極果敢に活動する大元気で、万物を発生させ、育成させる卦です。次に、彖辞(たんじ)と爻辞(こうじ)の内容を見ていきたいと思います。

 

彖辞(たんじ) 乾は、元(おお)いに亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よろ)し。

(4 p.49彖辞のみ引用)

彖辞(たんじ) 卦の意義・性質を説明し、吉凶悔吝を断定する言葉)        

乾は、大いに事が運び、うまく叶う。正しい事を固く守ること。

 

爻辞(こうじ)(4 p.50-p.53用九と爻辞のみ引用)

(爻の意義・性質を説明し、吉凶悔吝(きっきょうかいりん)を断定する言葉)

 

※爻の表示は算木と同じようにしています。

用九、羣龍(ぐんりゅう)を見るに首(かしら)无(な)し。吉(きつ)なり。

六つの陽爻の龍は首を雲で隠して現わさない。従順・謙遜であれば吉である。

※用九:六十四卦全ての九爻(陽爻)の用い方が示されている。

 

⚊ 上九(じょうきゅう)、亢龍(こうりゅう)なり。悔(く)いあり。

  昇りつめた龍。頂点を極めた時。自ら後退する。 

 

⚊ 九五(きゅうご)、飛龍(ひりゅう)、天にあり。大人(たいじん)を見るに利(よろ)し。

  天空を飛ぶ龍。運気盛大で能力を発揮できる時。志を達成したが驕り高ぶらず、衰退に

  対処すること。リーダーの人材育成を行う時。

 

⚊ 九四(きゅうし)、或(ある)いは躍(おど)らんとして淵(ふち)に在(あ)り。咎无(とがな)し。

  龍が天に飛翔しようとする時であるがその時では無い。慎重に進めば禍は無い。

 

⚊ 九三(きゅうさん)、君子(くんし)、終日(しゅうじつ)乾乾(けんけん)し、夕(ゆうべ)まで

  惕(てき)若(じゃく)たり、厲(あや)うけれども咎(とが)无(な)し。

  猛烈に活動する龍。一生懸命に努力研鑽する時。果敢に活動し、内省すること。

 

⚊ 九二(きゅうじ)、見龍(けんりゅう)、田(でん)に在(あ)り。大人(たいじん)を見るに利(よろ)

  し。

 地上に姿を見せた龍。大人(九五・指導者)に出会い、学ぶこと。基礎をつくる時。

 

⚊ 初九(しょきゅう)、 潜龍(せんりゅう)なり、用(もち)うること勿(なか)れ。 

  地に潜む龍。志を立てる時期。時期尚早、力量不足、実力涵養の時。

  ※初九と九二が「地」、九三と九四が「人」、九五と上九が「天」の位置づけとなります。

 

 更に簡略化して纏めますと、この様になります。乾為天の龍の帝王の物語を下から見ていくと、六つある爻の一番下が、頼山陽の十二歳の時と見ます。つまり、龍は田の下に潜んでおり、志を立てて実力をつける時です。そして、五爻(下から五番目)の飛龍の大成に至るまで、何を行わなければならないかが書いてあります。頼山陽はこの乾為天の教えをよく理解したと考えます。

乾為天(乾・天・剛健)の爻(時間の変化)の説明。爻は初爻(一番目)から上爻(六番目)に向かって上昇していきます。乾為天は龍を使ってリーダー(帝王)の心得を教えています。

龍は君主・皇帝のシンボルで、龍を君主に見立てて君主の歩む道を説いています。そして、龍は剛健で強いシンボルです。しかし、龍独りでは、力は発揮できません。そうです、龍(陽)は雨雲(陰)を呼び、恵みの雨を降らせ、万物を育成させます。龍(陽)と雨雲(陰)は一体なのです。これを君主に例えると、剛健すぎると行き過ぎて傲慢になります。よって、陰の徳である、柔順謙虚であることが大事になってきます。ですので、用九があり、64卦全ての陽爻の使い方が記してあるのです。(5)

 

※仁寿山校の白鹿洞書院掲示は明治維新後、競売にかけられ、亀山雲平先生が詠まれた長谷川君父子瘞髪(えいはつ)之碑に変わっていますが、双龍はそのまま残っています。その龍にも雲が描かれています。写真からデジタル処理をして再現しました。ご覧ください。

出典 『河合寸翁大夫年譜』「仁寿山書堂立朱夫子白鹿洞書院掲示之碑」

頼山陽は河合寸翁の娘婿の河合屏山に、経書は大義大局を掴む事(6 P.351)と仁寿山校でアドバイスをしており、幼少期から物事の正当性の判断とマクロ的に要点を掴むことに長けていたと考えます。

以上のことから、頼山陽は、大学の天下国家を治める君主・宰相の学問から入り、仁に基づく君子の道と、真の人間の生き方の論語を学びました。そして、君子が学ぶ究極の学問、つまり、自然哲学、変化の書、及び「生」の学問を学ぶことによって、気付いたのではないでしょうか。それは、人間とは何か、学問とは何の為にするのかを自覚し、決心し、志を立てることが重要であることに気付いたのではないでしょうか。私はこのように考察しています。

◆立志論(抄)(1 p.40-41引用)

男児、学ばざれば則ちやむ。学ばば則ち、まさに群を越ゆべし。  

今日の天下は、なお古昔(こせき)の天下のごときなり。今日の民は、なお古昔の民のごときなり。 

天下と民と、古(いにしえ)の今に異ならず。而して、これを治(おさ)むる所以の、今の古に及ばざるものは何ぞや。 

国、勢いを異にするか。人、情を異にするか。志ある人のなければなり。

庸俗(ようぞく)の人は 情勢に溺れて、而して自ら知らず。上下(しょうか)となく一なり。これ深く議するに足らず。 

独り吾が党(儒学の徒)、その古帝王(堯・舜など聖天子)の天下の民を治むるの術を伝うるものに

あらざるか。・・・・・

吾れ東海千載(せんざい)の下(もと)に生まれたりと雖も、生まれて幸に男児たり。 

また儒生たり。いずくんぞ奮発して志を立て、以て国恩に答え、以て父母の名を顕わさざるべけんや。

古の賢聖・豪傑の成すところ、吾れもまた、ちかかるべきのみ。たれか我が言の狂を言わん。

吾れ生まれて十有二年なり、父母の教(おしえ)を以て、古道を聞くを得ること六年なり。 

春秋に富めりと雖も、その成るやすでに近し。いやしくも自ら奮わずして、因循に日を消す。

すなわち、かの章を尋ね、句を摘(つ)むの徒に伍して止まらんか、恥じざるべけんや。 

ここに於て、書して以て自ら力(つと)む。またこれを申(の)べて曰く、ああ汝、これを選び、同じく天下に立ち、

同じく此の民の為にす。なんじ庸俗に群(ぐん)せんか、そもそも古の賢聖・豪傑に群せんか。

 

◆癸丑(きちゆう)歳 偶作(1 p.41-42引用)    [述懐(立志詩)]

十有三春秋    

十有三の 春秋

逝者已如レ水   

逝くものは すでに水のごとし

天地無二始終一  

天地 始終なく  

人生有二生死一  

人生 生死あり

安得下類二故人一 

いずくんぞ 古人に類して 

千載列中青史上  

千載(せんざい) 青史(せいし)に 列するを得ん

【大意】

わが十三歳の年月は、水の流れのように、早くも過ぎ去ってしまった。天地には始めも終わりもないが、人生には限りがある。だから、生きているうちに、昔のえらい人たちに負けないような仕事をして、長く歴史に名を残したいものである。

 

◆汝、草木と同じく朽(く)ちんと欲するか(1 p.39引用)

頼山陽は、この言葉を高らかに唱えて、わが身を励ましたそうです。

参考・引用文献

1. 「頼山陽選集 1 頼山陽伝」 安藤 英男 編  ㈱近藤出版社 1982年

2.「人生を創る言葉 古今東西の偉人たちが残した94の名言」渡部昇一著 致知出版社 2005年

3.「易学入門」安岡正篤 著 明徳出版社 1960年  

4. 「全釈 易経 上」 黒岩重人 著 藤原書店 2013年

5.「リーダーの易経 「兆し」を察知する力をきたえる」 竹村亞希子 著 ㈱KADOKAWA 2014年

6.「頼山陽選集2 頼山陽詩集」 安藤英男 編者 近藤出版社 1982年 

辛卯仲冬、仁寿山黌を過ぐ。時に白水大夫、東邸に在り。令郎子魚、寮中に居る。此れを作り子魚に呈して、兼て大夫に寄す。

​頼山陽と渡部昇一

​頼山陽・剣菱黒松の冊子より出典

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​渡部玄一 著『明朗であれ』

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​河合寸翁坐像図・姫府名士 河合寸翁傳

 上記に『易経』と頼山陽の考察文を投稿させていただきましたが、渡部昇一先生の著書『知的生活の方法』を読んで『易経』と頼山陽のことを知りました。渡部昇一先生は、皆さんもよくご存じと思いますが、上智大学名誉教授で、英語学者、哲学者、評論家でもあり、多くの著書を出されている著名な方です。平成27年に逝去されました。享年86歳でした。「知の巨人」と云われ、自宅には地下三階の書庫があり、15万冊の蔵書を遺されました。私は30歳の時、先生の講演を聞いて、明確で分かり易く、興味深い講演だったことを覚えています。

 著書『知的生活の方法』の中で、渡部昇一先生が頼山陽の漢詩に出会ったことが書かれています。先生は小学生の頃、少年講談や少年向き『三国志』を読まれ、大人向けの『キング』という雑誌の付録にあった『唐詩選』の有名な漢文を見て、感動されたそうです。その事から、五言絶句を知り、漢文をやりたいと思い、お姉さんに塚本哲三著『基礎漢文解釈法』の本を買ってもらって漢文を学び始め、朝5時ごろ台所で火を焚く手伝いをしながら大部分を読み、学ばれたそうです。その著書の中に、頼山陽が11歳の時に書いた『立志論』に出会い、自分よりも年下の人間が書いたことを知って愕然としたそうです。そして、先生はその漢詩の二文「男子不学則己 学則当超羣矣」を書いて机の前の壁に貼り付けたそうです。また、頼山陽が「汝草木と同じく朽ちんと欲するか」を紙に書いて自らを励まして勉強したと知って、先生も同じように紙に書いて机の前に張り付けていたそうです。その様なことから、漢文と漢字が無暗に好きになったそうです。それから頼山陽が13歳の時に作った『立志詩(述懐)』に出会って、当時12歳だった先生は、山陽にあやかりたいと思って漢詩を作り始めたそうです。渡部昇一先生は子供の頃に頼山陽の漢文に出会い、頼山陽と同じく「小さな自分で一生を終わらせるな」と思われたのではないでしょうか。そして、愛国心を強く持たれていたのも同じだったのではないでしょうか。渡部昇一先生も母親を尊敬し、母から常に正直であれと幼少から教えられていたそうです。そして、自分に対して忠実であれと心に基軸を持っておられたようです。先生が子供たちに遺された教えは「明朗であれ」とのことです。未来を生きる若者に対して、日本のあり方や未来を生きる道筋を書籍として多く遺して下さっています。

 先生は経済的に苦しい学生時代、苦学して大学生活を送り、ドイツやイギリスに留学をされています。苦学生であっても、焦らず腐らず、自分に忠実に弛まぬ努力をしたから今日があるとおっしゃっています。頼山陽も大志を抱いて出奔した後、厳しい監禁生活の間に時期を待って学び続けました、又、河合寸翁も、祖父定恒の刃傷沙汰で河合家は家名断絶となり、謹慎状態で厳しい少年期を過ごした様です。一方、藩主酒井忠以(ただざね)は彼の才能を愛し、諸芸文武を、徳をもって彼を教え導きました。後に、藩主は、祖父定恒の忠義による刃傷沙汰である事を思いやり、河合家は家名復興となりました。しかし、河合寸翁が21歳の時に父宗見は他界し、悲しみに暮れる中、家督を継ぎ家老職に列しましたが、同僚と意見が合わず、職を辞して20年間孤独と闘いながら学事に専念しました。苦難の中でも学問を忘れず奮励努力し、42歳の時に勝手掛を命じられ、藩政大改革に着手して73万両の借財を返済し、姫路藩に貢献しました。逆境の中でどのように対処していくかで、その人の人生が決まるようです。

 私事ですが、昔、ビジネスで「冷や飯を食う」逆境の時期を過ごす経験をしました。その時に出会ったのが『易経』の「地火明夷」で不遇対処の道の卦でした。その教えの内容を実践して境遇を脱した貴重な経験をしました。その経験から『易経』を学ぶ様になりました。その『易経』のフィールドワークとして、河合寸翁と仁寿山校を探究する様になり、河合寸翁から、山崎闇斎、朱子、頼山陽、渡部昇一先生、岡田武彦先生の本と出会うことができました。このような賢人達の生き方から、本当の学問とは何か、自分の人生をどのように生きていくのかを更に考える様になりました。また、最近では、死ぬまで学び続けることが大事であると考える様にもなりました。私は、自宅に佐藤一斎の『三学戒』の額を掲げています。昔、新たな道に挑戦するため退職した時、広島出身の会社の大先輩から頂いた額です。今もこの『三学戒』の額を毎日見ながら生活をしています。 私の人生目標である生涯学習の励ましの言葉となっています。

三学戒IMG_8488.jpg

三学戒

小(わか)くして学べば 壮にして為す有り

壮にして学べば 老いて衰へず

老いて學べば 死して朽ちず

 

書は安岡正篤先生が揮毫されたものです

尚、渡部昇一先生は、麗澤大学学長の中山理先生と『運命を開く易経の知恵』を出版されています。副題は「老いも若きも、学ぶべきは人間学」となっています。対談形式で書かれており、博識の両先生が様々な視点から『易経』を語られています。

参考文献

渡部昇一 著『知的生活の方法』  講談社 1976年 

渡部昇一 著『人生を送る言葉 古今東西の偉人たちが残した94の名言』  致知出版社 2005年

ウェイン・W・ダイア― 著渡部昇一訳・解説『小さな自分で一生を終わるな! 人生に奇跡を起こす生き方』三笠書房 1990年

 渡部玄一 著『明朗であれ 父 渡部昇一が遺した教え』 海竜社 2020年

安藤英男 著『頼山陽傳』 近藤出版社 1982年

寺林峻 著『姫路城凍って寒からず』 東洋経済新報社 1998年

芳井直利 著『姫府名士 河合寸翁傳』 姫路市 1912年

藤戸孝純 著『播磨会会報誌 播磨が生んだ人物 河合寸翁』 姫路独協大学 播磨会 発行 1996年

渡部昇一・中山理 著『運命を開く易経の知恵』 モラロジー研究所・廣池学園事業部 2016年

参考書籍・資料

岡田武彦 著『東洋のアイデンティティ 中国古代の思想家に学ぶ』批評社 1994

島田 清 著『兵庫県学制百年史 飾磨県時代の教育概況』 昭和47年(1972)

姫路藩支校「仁寿山校」出版の太極図(木活)の図(p.9)を掲載

仁寿山と仁寿山校

「頼山陽の姫路観と仁寿山校の教育」島田清 著 兵庫県教育研修所 1969、

『姫路藩の藩老 河合寸翁伝』穂積勝次郎 著 1972

『論語新釈』宇野哲人 著 講談社文庫 1980

『中国の古典名著・総解説(近思録)』 自由國民社 1993年

芳井直利 著『姫府名士河合寸翁伝』 姫路市役所 1912年 仁寿山校絵図を掲載

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